たわいない友人との会話で、
「相撲の行司は、力士の取り組みを裁く以外に、
番付表を全て手で書いている。」
ということを初めて知った。
その文字は「相撲文字」と呼ばれて、
番付表に隙間なくぎっしり並んでいて、
それはお客さんが隙間なく大入りであることを願ってのことらしい。
横綱、大関、関脇・・・と実力ある強い力士ほど大きく、
十両以下あたりから、番付が下がればさらに小さくなり、
次第に視力に自信がなければ見づらくなって、
下位の力士たちは俗に「虫眼鏡」と呼ばれ揶揄されるそうだ。
私は、その「虫眼鏡」エリアの四股名は、
縮小コピーでレイアウトと思っていたが、
全て行司の手書きと聞いて本当に驚いた。
だって、爪楊枝の幅さえあれば文字が書ける
その曲芸のような技術の方が、
大抵が誰の目にも明らかな取り組み結果を滔々と宣う
(勝負審判である親方4人の前で!)
「行司」の役目より明らかに匠の技と思えるからだ。
他にも、歌舞伎の勧亭流、落語の寄席文字など、
テクノロジーがこれでもかと発達した今の世の中で、
手書かれた文字は各々の文化を表現する、
なくてはならない意匠として確かに存在する。
そんな非合理で効率の悪い、
謂わば無駄なこだわり・努力と思われる「手書き」を、
私は応援したくなるし、言葉の、
意味を伝える以外の何かしら大切なものが、
伝わる気がしてならないのだ。
「手書き」といえば、近頃の「年賀状」が置かれている立場は危うい。
日本郵便が今年の元日に配達した年賀状は、前年比約6%減の
16億4000万枚となり、8年連続で前年を下回った。
年賀状は例年、7割程度が元日に届く。
元日の配達枚数は、ピークの1993年から4割も減った。
背景に電子メールやSNSの普及があるそうだが、
唯でさえ多忙な年末年始に、「年賀状」は煩わしい慣習なのは確かだ。
そろそろ新年の挨拶も、普段から使うメールやSNSで
コミュニケーションしてもいいとは思う。
お互いそれで了解ならそれでいい。
ただこちらからは賀状を送ったのに、返信がメールの輩もいる。
(別に構わないが、ただそのメールの返信をするべきなのか、
こちらはとても悩ましい。)
手書きの文面を一通、SNSにアップして
「手書きは大切だ」みたいなコメントをする輩もいる。。
(別に構わないが、それは「手書き」とは言わないだろうと、
とても思う。)
かくいう私はどうかと言うと、
宛名や表のメッセージ部分は印刷に頼っていて、
ただ必ず一言メッセージだけは直筆で、書くようにしている。
辛うじてその一言だけで、手書いていると密かに自負している。
細やかな抵抗ではあるけれど。
私たちはこうして、いつのまにか言葉を書くことを忘れ、自ら放棄し
今この瞬間の私もそうであるように、
PCやケータイで言葉を打ち続けている。
手で言葉を書くことで、文字を生み出す実感を味わって
それぞれの字体に想いが乗り、言霊が宿る。
まるで手料理のように、手作りの言葉を作っていく。
その行為に意味がないわけないだろう。
そんなことを想いながら、
あぁ、またこんなところで、立ち止まってしまった。。