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サドンデス

Blog_2017_06@2x

サッカーで、「サドンデス」という言葉が使われなくなって久しい。
試合が拮抗し、前後半で決着がつかず、延長に入って
先に点を入れた方がその時点で勝ちとする、
そのルールを「サドンデス(突然死)」方式と言った。
私はこの「サドンデス」という言葉が好きだった。
何か不穏で、不条理、でもロマンがあって。情熱的な、
サッカーというスポーツのイメージに、ぴったりだったように思う。
だけど、不吉で、ネガティブな印象が良くないという理由で
「(延長)Vゴール」とか「ゴールデンゴール」に変えられてしまい、
やがて、この方式自体も採用されなくなってしまった。
サッカーはなかなか点が入りにくい競技だ。
故に劣勢のチームが偶然入れた虎の子の一点を守り抜いて勝つこともある。
シュートの雨を降らせ続けた優勢のチームが、
一発のカウンターで負けることもある。
そんな番狂わせ、理不尽なことが起きうる負のイメージが、
「サドンデス(突然死)」にはあったと思うのだ。

闇雲に「負」を排除する。そんな言葉狩りの例は山ほどある。
例えば、「痴呆症」は患者に対して差別的で可哀想だとして、
「認知症」と呼称を変えた。しかし「認知」だけでは、
何が不全か症状がイメージしづらく、分かりにくくなったのではないか。
「障害者」は、「害のある人」のようで不適切とのことで、
「障がい者」が多用される。ただ本来は「障害」という単語であって
「害」だけ取り出して問題視するのは、木を見て森を見ずだとも思うのだ。
「子供」は、大人のお供のようで従属イメージが相応しくないとのことで、
最近は「子ども」が多く使われる。
「片手落ち」に至っては「片手・落ち」であると差別用語のレッテルを
貼られているが全くの誤解で、元の意味は「片・手落ち」。
すなわち「手落ちが片方だけ」という意味である。

ネガティブ・チェックの繰り返しで意味が曖昧になり、
リスクヘッジだけが目的となって、知らないうちに
「改善」ではなく「改悪」になってしまう。
それはただの責任逃れでしかなく、
本来の目的や意味、ルーツまでも失ってしまう。
ある一定の「毒」が有効だったりするのに、
過剰な無菌室を目指して、不健康になる。
例えば公園から、少しでも危険な遊具を撤去していった結果、
何もなくなってしまうような皮肉。
クレーマーの増加も一因だろうが今、多くの行政は
「動く遊具(回転ジャングル、シーソー)」に後ろ向きだそうだ。
危険を排除することは、それだけで正義なのか。
公園の本来の目的は何なのか。逆に痛みや危険を知って学べることがある。

また、最近よく使われる「ブラック企業」という言葉。
労働者を搾取する横暴な企業に、警鐘を鳴らす為にも
いま必要な役割を果たしているとは思う。
しかし、頭ごなしに善悪を二分する傲慢さと、
それをただの印象・イメージで伝える曖昧さを
私は感じてあまり好きではない。
何を持って「ブラック」とするかの根拠を、
未だ厚生労働省も定義できていないせいもある。
天使か悪魔か、という短絡的な二者択一。
このようなレッテル貼りは無理矢理白黒つけるがあまり、
かえって不正が陰湿化し問題が潜ることもある。
逆に、清廉潔白なホワイト企業ってどの程度存在しうるのか。
ほとんどがグレーなんじゃないか。
世の中そんな見事に、色分けできないはずだ。

時代の変化で、なくなっていくもの、入れ代わってゆくものがある。
それは、普段から無自覚に使う「言葉」に顕著で、
日々作られ、改ざんされ、淘汰されている。
その人知れず、すり替わっていく中に、
とても大切なものが含まれているのではと思う。

清濁併せ呑む寛容さが社会から消え、
毒が言葉からなくなって、豊かさや品が消えてゆく。
体育館裏とか、川辺の草むらとか、ビルの隙間とか、
一見すると如何わしい、何気ない日常の怪しい余白に、
救われたりすることがある。少なくとも私にはあった。

こんなことが気になっているのは、私だけだろうか。。